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2020.01.13
移動する中心|GAYAReport / Article |
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「移動する中心|GAYA」の活動メンバー「サンデー・インタビュアーズ」が、声の採集についてさまざまな視点から考える月例ワークショップ。その第3回を2月23日(日)に世田谷・生活工房で開催しました。今回は都市社会学者の山本唯人さん(専門は都市論・災害研究、戦争記憶の継承論)をゲストスピーカーにお招きしました。ここではトークの様子を掲載します。ワークショップの様子はこちらに掲載しています。
山本唯人 みなさん、はじめまして。私は社会学者として研究に携わる一方で、キュレーターとしても活動しています。今日は私が編集を手掛けた『泊里記念誌』をご紹介しながら、「〈理解のフレーム〉をつくる」というテーマでお話したいと思います。
まず『泊里記念誌』の概略をお話しましょう。泊里は岩手県大船渡市の末崎町に位置する小さな漁村です。東日本大震災の津波によって36軒のうち34軒が全壊しました。被災した多くの集落は、集団移転して存続させる方法を模索しましたが、泊里ではそれが難しいと判断し、2013年3月に集落としての解散を決定しました。
2015年ごろから研究者が調査のために泊里に入り、学術研究と同時に地元の方々と一緒に記念誌の制作に乗り出します。こうしてできあがったのが『泊里記念誌』です。なぜ学者が研究だけでなく記録のための本をつくることになったのか。それはあとで詳しくお話しますが、私が調査で泊里を訪れた際に、住民のお一人から泊里を記録に残す文集をつくりたいと相談を受けたことに端を発します。泊里とはどのような場所なのか、そこで暮らす人々はどのような経験をしたのか。それらを次の世代に伝えるための記録です。
この相談を受けたとき、私は研究者として引き受けなければならないと思いました。しかし、震災後に初めて訪れた村をどのように記録に残せばいいのか。私は頭を抱えてしまいました。人や場所の記憶や経験を伝えるためには、〈理解のフレーム〉をつくる必要がある。その枠組をイメージしながら伝え方を考えなければならないのです。
そもそも人間の経験には形がありません。経験や記憶は曖昧模糊としていて、縦横無尽に広がって漠然としている。つまり、とてもわかりづらいものなんですね。それを理解したり伝えようとするとき、私たちは何か形のあるものを頼りにします。ですから、注意しなければならないのは、どのような形にするかによって、伝わるものはすべて変わってしまうということです。たとえば、『泊里記念誌』は本という形をとっています。その中には写真や地図が掲載されていますが、その一つひとつに大きさや色、位置や順番が与えられています。このすべてに意味があるのです。言い換えれば、その一つひとつの選択が内容を左右するということです。私は先ほど「形のあるものを頼りにする」と言いましたが、これはかならずしも物理的な形態だけを指しません。本の目次のような「構成」も〈理解のフレーム〉にあたります。今日は実際に『泊里記念誌』の目次をひとつずつ追いながら、〈理解のフレーム〉のあり方を考えてみたいと思います。
その前に〈理解のフレーム〉とはなにか。ひとつわかりやすい例を挙げてみましょう。美術史家・エルンスト・ゴンブリッチの『芸術と幻影』(岩崎美術社、1979)の序論に、こんな挿絵が出てきます。アランという人が1955年の「ニューヨーカー」誌に載せた一コママンガです。これにゴンブリッチがどんなコメントを付けているかというと、「美術家は自分が見ているものを描くことはできない」というのです。美術家を人間、あるいは私たち自身と言い換えてもよいでしょう。古代エジプトのピラミッドに描かれている人物の絵は、体は正面を向いているのに顔は真横を向いています。こうした人物の描き方は、現代の私たちの目から見るとちょっと不自然に写りますが、実際に観たものの「描き方」は時代によって変わるのです。いま私たちは遠近法にもとづいて風景を描くことができますが、それは長い歴史のなかで発見されたひとつの〈理解のフレーム〉にすぎません。同じ人間を見ているのもかかわらず、フレームによって描き方が異なる。だから500年後には風景の描き方も変わっているかもしれないのです。
まず、何かをつくろうとするときに最初にぶつかる問いがあります。それは「どうしてそれをつくりたいと思ったのか」ということです。その答えはすでに持っているはずなんですが、もっとも答えづらい問いでもあります。ですが、この問への考えを言葉にすることが重要です。その答えに窮してしまったり、必要に迫られてその場で取り繕ってしまうということは、自分のやりたいことと〈理解のフレーム〉のあいだにズレがあるという徴候だからです。自分自身の動機にも形はありません。それを言葉にすることで文脈が整理されます。その問いは、ものをつくるあいだにも何度もぶつかりますし、つくったあとも引き継いで考えなければならないこともあります。ですから、折に触れて言葉にしてみましょう。私はどうしてつくりたいのか。この問いから考えることで、ものごとを伝える大事な糸口になるのです。
では『泊里記念誌』の場合はどうだったのでしょうか。私は災害をテーマに研究しているので、東日本大震災が起きたときは被災地に行かなくてはならないと思っていました。そんななか、多くの被災地が集団移転を探るなかで、解散した村があると聞いて向かったのが泊里でした。解散の選択をした村があることは、私にとって大きな驚きでした。解散とはどういうことなのか。きっとそこには、人のつながりや限界集落の未来を考えるうえで重要なヒントがあるのではないか。そう思ったのです。もうひとつ重要な動機は、地元の方から「泊里を記録に残すために、文集のようなものをつくって各家に配りたい」という相談を受けたことです。その思いに触れたことで、やるしかないと思うようになった。この2つの動機が絡まり合いながら、『泊里記念誌』がつくられていきました。
ところで、インフォーマント(Informant)という言葉があります。人類学や社会学の用語で、しばしば「情報提供者」と訳されます。調査の際に地元の立場でいろいろなことを教えてくれる人のことですね。インフォーマントに出会えないと、文献で調べたりすることしかできず、調査の範囲が限定されていまいます。結局、私たちは誰かに教えてもらわないと知ることができない。あたりまえのことかもしれませんが、これがとても重要なのです。『泊里記念誌』の場合は、調査と同時に地元の人から依頼を受けるかたちでインフォーマントに出会うことができたのです。
そのうえで、協力者の承諾という問題が控えています。奥付に記しているように、この記念誌は「社会と基盤」研究会という研究グループが発行者になっています。さらに、序論を書いてくれた熊谷秀雄さんをはじめとする、泊里記念誌を作成する会のみなさんの協力を得ながら私たち研究者がつくっています。そのうえで、現地に入って地元住民だったおひとりおひとりに企画の趣旨を説明して理解してもらう。その承諾を経るプロセスのなかで〈理解のフレーム〉を固めていったわけです。大切なのはそのプロセスです。一人ひとりと信頼関係を築いて企画の動機や意義を共有する。そうすると、誰とこの本をつくるのか、誰に協力してもらうべきかが、少しずつわかってくるようになります。
しかし私を悩ませたのは、泊里はすでに解散していたということです。地名としては残っているけれど、そこへ行っても誰もいないわけです。すでに「ない」地域のことを誰に承諾をとればいいのか。これは私が初めて直面した非常に悩ましい問題でした。どうしたのかというと、泊里の記録について元住民の方に寄り合いを開いてもらったのです。公民館の元役員や解散時に役職に就いていた方々に声を掛けて、『泊里記念誌』を出す企画について地元の人たちだけで話し合っていただきました。そのなかで記録の内容やスケジュールが議論され、目次案すなわち〈理解のフレーム〉の原型ができあがってきました。
では、そこから私がどのように〈理解のフレーム〉をもって『泊里記念誌』をつくったのか。ここからは実際に記念誌の構成を見ながらお話しましょう。
地元の方々に話し合ってもらい目次案をいただくことができましたが、それだけでは不十分です。寄り合いはあくまで元住民の方が何人か集まったにすぎないし、住民全員の合議を得るための会議体もない。そこで、かつて泊里にあったすべての世帯にアンケートをとることにし、同時に記念誌の企画について承諾を得ることにしました。これが第3章の「36軒の家の記録」になっています。アンケートは1軒につき1ページをあてて、屋号やその由来、地域行事や泊里の昔話などを記述してもらいました(必要に応じて聞き取りで補足しました)。
こうして各家に関してはコンパクトにまとめることができました。ですが、集落全体のことを理解するにはまだ至りません。アンケートを読み込むなかで、私は多くの家が触れている話題や場所があることに気づきました。そこで、3つのテーマ、すなわち「思い出」「にぎわい」「行事」に関して、座談会形式で元住民の方に語ってもらったのが、第4章の「泊里を語る3つの物語」です。ここにきて、私たちもようやく泊里に触れたなという実感を得ることができたように思います。
これまでお話したように、第4章の座談会は前章のアンケートから生まれたフレームです。〈理解のフレーム〉とはある意味で変幻自在ですし、あるものからあるものへと生成する場合もあるのです。第5章の「東日本大震災の記録」も、この流れのなかから生まれたものです。座談会で泊里はどんな村だったのかを元住民が語ってもらいましたがが、最後にはかならず東日本大震災の話になるのです。震災は触れるのがとても難しいテーマでもあり、そのことを収録するべきか否か、最後まで悩んでいました。ところが地元の若い方から、「泊里を語り継いでいくためには、震災も触れる必要があるんじゃないか」と。その言葉を受けて、震災の記録をひとつに章としてもうけることにしたのです。
さて、ここまでアンケート、座談会、そして震災の記録を掲載する経緯をお話しました。この段階で、私たちもある程度のまとまりが見えてきたかなと感じていました。しかし、まだなにか足りていないような気がしていたのです。津波に襲われるということも含め、集落が経験したことを地元の人以外も読んでわかるようにしたい。それはつくり手としての私の欲望でもありました。36軒のアンケートはとても貴重なものだけど、ともするとバラバラな情報が綴じられているにしかすぎない。じつを言えば、私自身もアンケートだけではまだ理解できていない部分がありました。
そこで第1章に「地図で伝える」というフレームをもうけることにしました。もっとも本の目立つところに、カラーで三つ折りにした「1896(明治29)年 明治津波以前の泊里の地図(麟祥寺所蔵)」を折り込み、次のページには編集部が作成した「東日本大震災以前の泊里の地図(2011年3月ごろ)」を掲載しました。地図とは経験の空間的な枠組みを把握することです。そのうえでアンケートや座談会を見れば、より集落の経験を把握することができるのではないか。そう考えて、第1章に2枚の地図を掲載することにしたのです。
この経緯を具体的にお話しましょう。じつは「明治津波以前の泊里の地図」は昭和56年に描かれています。村の古老が、昔の集落の様子を残しておかないと忘れられてしまうからと、明治29年以前の泊里を知る者を集めて描き出したものなのです。私はこの地図を見て衝撃を受けました。というのも、これまでに一軒一軒から聞いていた話の屋号が、ここにすべて書いてあったからです。明治の津波以前は、浜の周囲に張り付くように家屋が建ち並んでいました。その集落を「泊里」と呼んでいた。そして明治、昭和と津波のたびに家屋は浜から離れて上のほうへと移っていったのです。そんな話を裏付ける地図を見て、私ははじめて泊里を「わかった」と感じました。明治津波以前と震災直前の2枚の地図があれば、泊里という集落の経験を表すことができるのではないかと思ったのです。
そして、あとから付け加えたもうひとつのフレームが「年表」です。年表はさまざまな物事の順序をはっきりさせることできます。しかし、村の歴史の多くは口伝で伝わっていることが多く、人によって時間が異なり、年表に落とし込むことが難しいケースがあります。ところが幸いなことに、泊里は近隣の集落のなかでも中心に位置していたため、大正期からの文書が残されていたのです。その書類も公民館ごと津波で流されてしまったものの、たまたま打ち上げられて残されていた。年表をつくることができたのは奇跡だと言えるかもしれません。
さて、ここまで『泊里記念誌』を構成する5つフレームの経緯をお話してきました。とりわけ地図と年表が加わることによって、私たち研究者がつくるものとして恥ずかしくないものができたと思います。そのうえでみなさんにお伝えしたいのは、場所のはっきりしない思い出があること、年表に落とし込めない経験があるということです。
私は東京大空襲の研究に携わっています。空襲体験者に「どこをどうやって逃げたのか」を尋ねることがありますが、幼いころの記憶は定かでないことが大半です。もし東京大空襲を地図で表そうとしたら、その人の経験は落とし込めないんですね。だから、東京大空襲の避難経路を残すとしたら、地図をメインのフレームにしてはだめだろうと私は考えています。そんなことをしたら、ほとんどの経験を排除することになってしまう。
年表も同様の問題をはらんでいます。時計の針が刻むように誰が見ても同じ時間がありますが、じつは人間の経験によって定義される時間というものも、たくさんあるんですね。私たちはそれらを駆使しながら経験を伝え合っている。人間の経験は一直線に並ぶようなものだと思ったら、それは間違いなのです。先ほどお話ししたことと矛盾するようですが、こうした経験を無理やりひとつの年表に落とし込むことはしてはいけない。ですから、地図と年表はかなり強力なフレームであるがゆえに、そこから除外されてしまうものがあることも、同時に強調しておきたいと思います。
ここまで『泊里記念誌』の〈理解のフレーム〉についてお話してきました。最後に、みなさんに向けて「『泊里記念誌』から何が分かりましたか」そして「『泊里記念誌』に描けないものは何ですか」と問いたいと思います。〈理解のフレーム〉を意識しながら、考えていただきたいと思います。ありがとうございました。
山本唯人(やまもと・ただひと)
社会学者、キュレーター。青山学院女子短期大学現代教養学科助教、東京大空襲・戦災資料センター主任研究員。一橋大学大学院社会学研究科博士課程(単位修得退学)。専門は都市論・災害研究、戦争記憶の継承論。@tadahitoy
posted on 2020.03.30