あの大地震から11年、
震災と育児に関する
書籍を刊行します。

いつかきっと、
忘れてしまうから。

仙台市の沿岸部に暮らすかおりさん(仮名)。
2010年6月11日に第一子を出産しました。
彼女はその日から育児日記をつけ始めます。

そんな矢先、あの大地震が…。
彼女はそれでも手書きの日記を綴り続けました。
1日の終わりに、ひとりだけのダイニングで。

言葉を発した日。
ぐずって泣き止まない日。
留守番を任せた日。

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地震から10年後。
彼女は日記を再読し、語り始めます。
いつかきっと忘れてしまうことを。

4017日分の思いがつまった
20万字超の回想の記録が、
今春、書籍になります。

わたしは思い出す

11年間の育児日記を再読して

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製作中の書影

〈震災〉ではなく〈わたし〉を主語にする大地震後の11年を生きたひとりの女性の「口述の生活史」AHA!による出版レーベル第一弾。

わたしは思い出す 11年間の育児日記を再読して

仕様 110×160 / 並製 / 700頁(予定)
企画・
編集
AHA![Archive for Human Activities /人類の営みのためのアーカイブ]
デザイン 尾中俊介(Calamari Inc.)
協力 仙台市、せんだい3.11メモリアル交流館、
デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)
発行元 NPO法人記録と表現とメディアのための組織(remo)
発行日 2022年6月11日
価格 3,500 円(税込)

※本書は、せんだい3.11メモリアル交流館、および、デザイン・クリエイティブセンター神戸にて開催された展覧会『わたしは思い出す』の内容に、新たな要素を加えて再構成したものです。
※書影は製作中のものです。

予約受付中

発送時期:2022年7月以降
(一般販売の準備がととのい次第、順次発送いたします)
特典:オンライン購入限定しおり

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【もくじ】
はじめに
0歳|2010.6.11 – 2011.6.10
1歳|2011.6.11 – 2012.6.10
2歳|2012.6.11 – 2013.6.10
3歳|2013.6.11 – 2014.6.10
4歳|2014.6.11 – 2015.6.10
5歳|2015.6.11 – 2016.6.10
6歳|2016.6.11 – 2017.6.10
7歳|2017.6.11 – 2018.6.10
8歳|2018.6.11 – 2019.6.10
9歳|2019.6.11 – 2020.6.10
10歳|2020.6.11 – 2021.6.10
制作日誌
おわりに

※AHA!が始める出版レーベルの試みのひとつとして、書籍刊行後に本書のすべてのページをウェブサイト上で公開する予定です(写真やテキストの一部は、書籍のみに掲載される場合があります)。

予約販売開始に寄せて

松本篤 AHA!世話人/本書編集(聞き手)

1000年に一度と言われた大地震のあとの世界をあなたはどのように生きてきましたか─。

本回想録は、たったひとりの日々の記録と記憶にその問いの答えをさぐる試みです。

多くの方々に不幸が訪れた《11日》が、我が子の成長を祝う《11日》でもあったこと。

ページをめくるたびに、そんな複雑な現実がゆっくりと迫ってきます。

いくつもの《11日》を経由したその先に、あなたの前に立ち現れるのは、思い出すことの切実さ。

かおりさんの「小さな記録」が契機となった本書。

皆さまのお手元に届くまで、しばらくお待ちください。

"11年目の3月11日を迎えるにあたって"
read more…

2022年6月11日刊行!

本書に関する最新情報をnoteで公開します。制作日誌、編者への一問一答、出版レーベルを始める経緯、展覧会の記録などを掲載しています。
*2022年7月より順次発送を行ってまいります。本書に関する最新情報はTwitternoteをご確認ください。
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【企画 / 編集】
AHA!
Archive for Human Activities
人類の営みのためのアーカイブ
https://aha.ne.jp/

書籍『わたしは思い出す』やAHA!に関する情報は、ニュースレターでお知らせしています。
ニュースレターを購読する

【発行】
NPO法人記録と表現とメディアのための組織[remo]
https://www.remo.or.jp/

はじめに

10年目の3.11 にふさわしい企画を考えてほしい。

地震の記憶を継承するための展覧会を『せんだい3.11メモリアル交流館』から依頼されたのが本書刊行の発端です。復興が進んだように見える「被災地」の複雑な現状にどうすれば触れられるのだろう。10年目のことを尋ねるだけでは聞こえてこない声がある。3月11 日に着目するだけでは見えてこない風景がある。これまでの10年に散在する《非日常》の微小なかけらを丁寧に拾い集め、つなげ直し、これからの10年に伝えようと考えました。

私たちは地震後の日々を記録に残し続けた人を探し始め、かおりさんと奇跡的に巡り合うことができました。彼女の育児日記をともに再読し、「震災」という視点からではなく、ひとりの女性の「生」という視点から10年という歳月を捉え直すことを試みました。それは、「被災者」以前に「生活者」であること、「被災地」以前に「生活の場」であることを確かめる作業でした。「どんな大切な思い出もいつか忘れてしまう」。およそ6ヶ月にわたって継続された振り返りの作業は、かおりさんの切実な思いに触れ続けたひとときに他なりませんでした。

1000年に一度と言われた大地震のあとの世界を、あなたはどのように生きてきましたか。

本書は、たったひとりの女性の日々の記録と記憶に、その問いの答えをさぐる試みです。多くの方々に不幸が訪れた《11日》が、我が子の成長を祝う《11日》でもあったこと。その在りさまを経由してはじめて、幾多の命を悼む日付としての《3.11》の意味に立ち還ることができるのではないか。かおりさんの「小さな記録」が契機となった本書が、より多くの皆さまの掌に届くことを願います。

主な登場人物

かおり…
1981(昭和56)年、岩手県盛岡市にて生まれる。高校卒業後、仙台の専門学校に進学。音響技術の会社に就職し、ラジオ局で働く。2007年に結婚。2010年6月11日に第一子を出産。その日以来、日記をつけ始める。SNSはやらない。買い物はネット通販よりもじかで確認して購入するタイプ。ママ友は必要以上に要らないと思っている。嫌いな食べ物は牡蠣。動物が苦手。

夫…
1979(昭和54)年、栃木県宇都宮市にて生まれる。宮城県内の大学を卒業後、警備会社に就職し、仙台市にて勤務。夜勤あり。2010年に仙台市の沿岸部[蒲生]に中古物件の一軒家を購入。2014年からマラソンを突然始める。嫌いな食べ物は、マヨネーズ、納豆、その他多数。かおりからは雨男だと思われている。

あかね…
かおりの第一子。

妹…
1983(昭和58)年、岩手県盛岡市にて生まれる。2003年から2007年まで、かおりと仙台市内で二人暮らしをする。利発なタイプで、かおりとは真反対の性格。Mr.Childrenの大ファン。

サエ…
かおりの友人のひとり。かおりがたまたま参加したバンド活動で出会って以来の友人。2010年に男児(悠太)を出産。

祥子…
かおりの友人のひとり。専門学校の時のクラスメート。月に一度、ランチを一緒に楽しむ。2010年に女児(みさき)を出産。

アヤ…
かおりの友人のひとり。中学校からの旧友。夫の都合で水戸から仙台に転居して、かおりと再会。2008年に女児(えみ)を出産。2012年、東京に転居する。

先生…
かおりが幼稚園から通い始めたエレクトーン教室の先生。かおりは今でも、年に1度の発表会にはかかさずに参加している。

ヤクルトのお姉さん…
週に一度、自宅にやってくる。思春期の子どもがいる。

はむじろう…
ペットのハムスター。

※テキストの一部は、加筆修正されて刊行される場合があります。
※写真やテキストの一部は、書籍のみに掲載される場合があります。
※レイアウトは、刊行される書籍のものとは異なります。

2010.6.11
わたしは思い出す、涙は意外と出なかったことを。

時刻は19時33分、場所は里帰り先の盛岡の病院。初産でした。名前は前から決めていて、《あかね》とつけました。妊娠38周目でした。

2009年10月に妊娠がわかり、翌月には流産のおそれがあることも分かりました。仙台で8年間勤めていたラジオ局の音響の仕事を2010年3月に退職しました。夜勤のある警備会社に勤めていた夫は、2人で住んでいた仙台の中野栄のアパートに残って、私だけ5月に盛岡に里帰りしました。シフトが休みの時に車で盛岡まで会いに来てくれていました。

盛岡に帰ってすぐの妊婦健診で「早産になるかもしれないから、今すぐに入院してください」と言われました。突然のことでびっくりしました。病室は4人部屋の窓側でした。近くの高校から学生さんの声が聞こえてきたり、吹奏楽の演奏が聞こえてきました。いいな、外出たいなあ。せっかく地元に帰れたのになあ。そんなことを思っていました。私、盛岡の街に昔から愛着があって、専門学校を卒業したら、盛岡で就職しようと思っていました。

病院の先生に「早く産まれてきちゃいけない」と言われたので、とにかく安静を心がけました。大丈夫だからね、守るからね。ずっとお腹に話しかけていました。でも、お腹の赤ちゃんはすごく活発に動くんです。早く外に出たいのかな、この子は。そう思った記憶があります。入院してから2週間後に退院できました。退院した時に、母から「今日から毎日お昼をどこかに食べに行こう。産後は自由がなくなるから」と言われました。母はたぶん、私のお腹の不安定な状況を察して言ってくれたんだと思います。

予定日は6月24日でしたが、10日の時点でかなりお腹が張っていました。この日は夫がちょうど会社から休みをもらって盛岡に来ていました。「もしかしたらこのまま産まれるかもしれないね」。そんな冗談を言っていました。翌朝、トイレに行ったら〈おしるし〉が本当にあってびっくり。朝ごはんとチーズケーキ、コーヒーを飲んだあとに病院に行くと、そのまま入院するように言われました。数週間前に入院していた時に仲良くなった看護師さんに「おかえり」と声をかけられました。

子宮口が3cmほど開いていたんですが、入口がまだ硬かったので点滴と注射で柔らかくしてもらいました。時間が経つにつれ、お腹の痛みが出てきました。陣痛ってこれか。そう思いました。病室の短い廊下をひたすら何往復もしました。先生からは「たぶんこのまま出てくるはずです」と言われ、18時すぎに分娩室に移動しました。助産師さんのモニターチェックがあって、ついに分娩台に乗りました。夫と私の母は「頑張れ」と私に声をかけたあと、部屋から出て行きました。病院の方針で2人は立会いができないことになっていたんです。

とにかく痛くて大変でした。初産の時はどういう状況なのか分からないうちに産まれてくる。そんな話を友人から聞いていました。先生や助産師さんにいっぱい励ましてもらいました。「髪の毛、見えてるよ。もう少し。息たくさん吸って、いきんで」。何回かそんな声かけが繰り返されたその時、何か硬いものが出てきました。続いてニョロニョロとしたものが出てきたのがわかりました。一瞬、静かになり、その後すぐに可愛らしい産声が聞こえてきました。取り上げてもらった赤ちゃんの顔が私の目の前にありました。私はまだ息が荒くて、疲れきっていましたが、産まれたての赤ちゃんを見つめ、小さな手を触りました。その手が少しだけギュッとなりました。「いらっしゃい」と言ったような気がします。私、昔から根っからの泣き虫で、この時も泣いちゃうかなと思ったんですが、意外と涙は出ず、笑っていました。

待合室で待ってくれていた2人が分娩室に入ってきました。夫がへその緒を切りました。しばらくしてから、赤ら顔の父も部屋に入って来ました。出産が早まるとは思っていなかったんでしょうね。会社の人と飲んでいたらしく、ほろ酔い状態で駆けつけてくれました。何があってもひょうひょうとしている父らしく、「わわわわわっ」と驚きながら笑っていました。

配膳された夕飯のどれを口にしても、ものすごくしょっぱくて。こんな濃い味の物は食べられないと思って、結局何も口にしませんでした。夫がつまみ食いしていたのを覚えています。夫はひたすら動画と写真を撮っていました。あとで観たんですが、夫と母が待合室で待っている時の様子も自分で撮っていました。分娩を終えてぐったりしている私の姿も記録に残っています。

病院から日記帳をいただきました。この日から毎日手書きでつけ始めました。日付や本文の他にも、その日は生後何ヶ月何日目なのか、何曜日なのか、何を食べさせたのか。そんなことを書き添えることにしました。

退院の時、どれくらいミルクをあげたか、何時におしっこしたか、何時にウンチしたかを記録に残しておいてくださいと先生や看護師さんから言われました。母乳を与えた時は、左右とか、左、右と、細かく書くことにしました。粉ミルクの時は50cc、70cc、140ccというふうにあげた量を記すようにしました。夫がミルクを作ったり、おむつを替えた時も、あとから必ず状況を聞いて、1日も記入漏れがないようにしていました。

日記を書き始めた理由は、あかねが私と同じように子どもを産むようなことがあれば、何か参考になるものを渡してあげたいという気持ちからでした。あかねはどうやって生まれて、どのように育っていったのか。その記録が残ると、あかねにとっても、私にとっても、とても大切なものになると思ったんです。

出産後、盛岡には2ヶ月ぐらいいました。

2010.7.11
わたしは思い出す、100ccの目盛りを。

退院後、夜は必ずと言っていいほど何回も起こされていました。生後1ヶ月の頃は、母乳と粉ミルクで授乳していました。哺乳瓶の最大量が200ccなんですが、この頃の粉ミルクの量は1回につき100cc。11日も100cc分の粉ミルクをあかねに飲ませていると記していました。缶の内側のぐるりが鋭利になっていて、それがいつも少し気になっていました。最初はキューブ型のものを使っていました。でも、当時発売されたばかりでちょっと割高だったんで、すぐに金属缶のものに変えました。専用のすりきりスプーンで粉の量を測って、お湯と湯ざましで溶かして作るタイプです。絶対にこのメーカーじゃないとダメというこだわりはありませんでしたが、授乳期の終盤になると和光堂のミルクを使うことが多かったかな。

13日の日記には1ヶ月健診のことを書いています。夫は仕事があるから仙台にいました。あかねのお世話は私にしかできないということはわかっているんですが、ついつい自由がほしい、好きなことがしたいと思う時があるんですね。この状況から逃げたいと思って、よく泣いていました。そんな時はいつも母に怒られました。「世話できるのは、あんたしかいないんだから、やりなさい」って。ちょっと走りに行ってくると言われてひとりにされたりもしました。泣きながら世話をしていました。まあ逆に言えば、母にだけは正直に、素直にいろいろと話せていたように思います。母親はしっかり者でテキパキしていて、つい頼ってしまっていました。

退院後すぐのことです。母は私をリフレッシュさせるために、都南文化会館でやっていた入場無料のカジュアルなクラシックコンサートに、車で連れ出してくれました。あかねは父に見てもらっていました。寝不足でボーッとしていたこともあって、演奏が始まるとすぐに眠ってしまったんです。すごくすっきりしたのを覚えています。帰宅して車から降りた瞬間、激痛が走りました。利き手の右手を、自分で閉めた車のドアで思いっきり挟んでしまったんです。盛岡にいる間、右手の人差し指はしばらく包帯でぐるぐる巻きになっていました。

28日には「背中まで大量のウンチ。肌着もウンチまみれ」と書いています。

8月7日は、盛岡で毎年恒例の都南の花火大会を家の玄関先から観ていたみたいです。あかねと一緒に観た、初めての花火でした。8日には里帰りを終え、夫の車で中野栄の賃貸アパートに戻ってきました。実家から離れるのがすごく寂しかったです。高速道路から見える盛岡の風景を、じっと眺めていました。今でも、お盆やお正月を盛岡で過ごしたのちに仙台に戻る時は、必ず車の窓から街をじっと眺めてしまいます。私が運転して仙台に戻る時でも、バックミラー越しに街の風景を見ちゃいます。

仙台に帰って来た夜は、一回も起きずに夜通し寝てくれました。びっくりしちゃって母にすぐに報告したら、母もすごく驚いていました。9日も10日もあかねは寝てくれました。何ていい子なんだろうと思いました。不思議で仕方なかったです。実家にいた時はかまい過ぎていたんですかね。

2010.8.11
わたしは思い出す、名取のトイザらスで買ったベビーカーを。

11日には名取のトイザらスでベビーカーを買っていました。盛岡から仙台に帰ってすぐのことです。育児用品を買う時は、名取のダイヤモンドシティによく行っていました。今のイオンモール名取ですね。Combiというメーカーの黒色を選びました。アップリカも候補にあがったんですが、他の育児用品もCombiのものを購入していたこともあって、結局、揃えることにしました。

12日は仙台に戻って初のお出かけをしたみたいです。「マイホーム予定になる家を見に行く」と書いてあります。そう言えば、里帰り中だった時に「いい家が見つかったんだけど、見に来ないか」と夫から電話がかかってきたんです。そのことを母に相談したら「あんたバカじゃないの、こんな体なのに行けるわけないじゃん」と言われました。だから、仙台に戻ってきて、すぐに家を見に行ったんです。蒲生[がもう]という海沿いの地区に建つ、築20年ほどの一軒家でした。すぐに買いました。こんな大きな買い物を、産後すぐのタイミングでするなんて、まったく想像していなかったですね。仙台に帰ってきたばっかりなのに、何かと忙しかった記憶があります。

岩手県盛岡市で生まれ育った私は、地元の高校を卒業後、仙台で一人暮らしをしながら音響技術を学ぶ専門学校に通いました。音響の仕事ってかっこいいなあ。高校生の時にあるきっかけがあって、憧れるようになったんです。専門学校を卒業後、ラジオ局で音響の仕事に就きました。夫と出会い、結婚し、妊娠して仕事を辞めました。出産したらすぐに仕事に戻るというような考えは持っていませんでした。

夫は栃木県宇都宮市で生まれ育ち、宮城県内の大学を卒業後、警備会社に就職しました。2人とも仙台が地元ではなかったので、いずれこの土地を離れるだろうという感覚がありました。夫の勤める警備会社では、転勤や異動の可能性もありました。だから、もし仙台を離れることになったら買った家はどうするのかと聞いてみました。「誰かに貸す」という返事でした。夫からすると、マイホームに憧れというか、何か強い思いがあったんでしょうか。夫は蒲生の家をとても気に入っていました。家を購入することに反対する理由は、私には何もありませんでした。

19日には「盛岡の父母が来る」、23日には「家を購入。ハンコを押した」と書いています。2ヶ月後には蒲生に引っ越しました。

私には仲のいい友人が3人ほどいます。それぞれ出会ったタイミングやキャラクターが違うので、みんなが一堂に会うとか、会わせたことは一度もないですが。そのうちの2人がちょうどこの時期に続けて出産しています。1人は祥子です。高校卒業後に進学した仙台の専門学校は1クラス30名だったんですが、女性の生徒は少なくて、私を含めて3人しかいませんでした。途中で1人が辞めちゃったんで、私はもう1人の女の子とよく一緒にいました。その子とは学校を卒業しても付き合いが続きました。その子が祥子です。

もう1人はサエさんです。専門学校を卒業した私は、音響の技術職として就職できて、仙台のラジオ局で働いていました。現場の仕事を覚えたいという一心で、一生懸命やっていました。そんな時に、たまたま仙台市内で活動しているバンド活動に参加することになるんです。そこで出会ったのがサエさんでした。

9月上旬、祥子は女の子を産みました。みさきという名前をつけました。その翌日、サエさんは男の子を産みました。悠太という名前をつけました。悠太君、みさきちゃん、あかねの3人は、2010年度生まれの同学年になりました。

2010.9.11
わたしは思い出す、「極めてまれに副作用があります」という注意書きを。

11日には「7時/180、10時/180、15/180、18/母+140、おふろ」とありました。18時には母乳も粉ミルクも両方あげていたみたいです。この頃から予防接種が毎月のようにありました。初めての接種がポリオで、15日に打つ予定でした。私は小さい頃から注射が苦手で、打つところを見るのも嫌だなと思っていました。

当日のことはよく覚えています。てっきり腕に注射するものだと思って病院に行ったら、飲むタイプだったんです。スポイトみたいなもので飲ませるんですね。直前にミルクを飲ませていたので、しまった、飲まないかもと思いました。だけど、ワクチンが甘かったみたいで、ぺろぺろ舐めていました。そんなにうまいかいと思いながら見ていました。

ワクチンを吐き出したらもう一度飲ませないといけなくなるので、しばらく様子を見てから帰宅しました。看護師さんから「指しゃぶりしないようにしてください」と言われ、30分くらいずっとあかねの手をにぎって、目を見ながらおしゃべりしていました。全然泣きませんでした。

17日に新田[しんでん]のこどもクリニックにて3ヶ月健診がありました。新生児の時に着ていた服が小さくなっていたし、私の肩と膝が痛くなってきたので、身長も伸び、体重も確実に増えているんじゃないかと思っていました。ちょっとぽっちゃりしてるのかなと思っていましたが、おおむね平均でした。この頃は毎日うつ伏せ遊びをさせていました。両足で踏ん張って頭を左右に動かしていました。ある程度頑張ると電池切れしたように、額を床につけて、よだれをタオルに垂らしていました。誰に教えてもらうわけでもなく、1人の人間に近づいている。すごい力を赤ちゃんは持っているんだなと感じました。

19日は「お食い初め」と一言だけ書いています。中野栄のアパートでやりました。サンマを焼きました。鯛なんて買えないし、焼けないし。9月はサンマが旬じゃないかという話になって、結局、焼きサンマにしたんです。

20日には、産後すぐの祥子と産まれたばかりのみさきちゃんに会ってきました。あかねとみさきちゃんは3ヶ月くらいしか違わないのに、体の大きさが全然違っていました。ちっちゃーいっておもわず口に出したことを覚えています。私の場合は3時間くらいの陣痛だったと思うんですが、祥子から「25時間くらい続いた」という話を聞き、大仕事、本当にお疲れさまでしたという気持ちになりました。

26日には、3泊4日で、宇都宮の夫の実家へ。お義父さん、お義母さんにあかねのことを祝ってもらいました。知らない場所に行き、知らない人に会ったので、あかねはとにかく大泣きしていました。

この頃、私があかねを連れていると、知らない人から「男の子ですか」とよく聞かれました。知り合いだったら「いや、違います」と言うんですけど、通りすがりの方だったらちょっと面倒くさかったので「そうなんです」と言っていました。産まれたての時は「パパに似てるね」とよく言われていました。私もそう思っていました。とくに目元が夫にすごく似ていたんです。でも、どんどん成長するにしたがって周りの人からは「目元、ママに似てきたね」と言われるようになりました。たしかに今では私の目に似ています。

2010.10.11
わたしは思い出す、びっくりドンキーのペチュキムチバーグを。

生後4ヶ月にもなると、いろんな感情が出るようになっていました。寝返りもできるようになりました。11日の日記には「靖子さんとお昼」と書いていますが、何を食べたのか全然思い出せない…。あ、びっくりドンキーで靖子さんと久しぶりに再会して、その時に得体の知れないハンバーグを食べたんだった。ペチュキムチは白菜キムチという意味だったと思います。

私と夫は音楽という共通の趣味がきっかけで付き合い始め、2007年に結婚します。仙台で活動しているあるバンドがキーボードを募集していたんです。私は小さい頃から地元のヤマハ教室でエレクトーンを習っていたので、軽い気持ちでそのバンドの練習に参加してみました。それが夫との出会いです。夫はドラムを叩いていました。その輪にサエさんやサエさんの夫さん[当時はまだ結婚していない]、靖子さんもいたんです。靖子さんとは、サエさんとサエさんの夫さんの披露宴でも一緒に演奏しました。サエさんの夫さんがギターとボーカル、靖子さんにはキーボードを弾いてもらいました。私はエレキベースをやりました。

靖子さんとハンバーグを食べた2日後の13日には、悠太君が産まれて1ヶ月のお祝いをしに、サエさんの家に行きました。15日は高砂保健センターで4ヶ月育児教室に参加しました。19日には8年間勤務していた元職場に出産の報告をしに行きました。3月に退社して以来でしたが、会社の雰囲気も変わりなく、皆さんお元気でした。実はこの日、蒲生の家へ引っ越した日でもありました。

私には2つ離れた妹がいるんです。私と同じように仙台に出て来て働いていました。この時期はまだ独身でした。その妹が引っ越しを手伝いに来てくれています。翌20日には、中野栄のアパートに行き、退去の最終確認をしています。何もモノがない状態でした。同棲を始めて、結婚して、あかねを産んで、家族が3人になった、いろんな思い出の詰まった場所にお別れをしました。

25日には、妊婦の時に参加していたプレママ教室にあかねと参加しました。出産報告と赤ちゃんの写真はそれぞれメールで交換していたんですが、生後数ヶ月も経つと赤ちゃんの顔つきがすごく変わっていてびっくりしました。半年前、私たちは妊婦として参加して先輩ママからいろいろと教えてもらっていたんですが、今度は私たちが先輩ママとしてお話しする番になっていました。妊婦の皆さんの大きなお腹を触らせてもらいました。懐かしい気持ちになりました。

27日には宮城野区役所で予防接種をしています。「BCGを受けた」と記しています。いわゆるハンコ注射ですね。2個目を押された時に、少し泣いていました。この日、夫は会社の付き合いで飲み会に参加していました。電話があったので、寝ているあかねを連れて最寄りの駅までマーチで迎えにいったのを覚えています。ほとんどお酒が飲めないのにベロベロになっていました。夫が車に乗った瞬間にふと思ったのですが、夫から漂ってくる匂いが、私が小さい時に酔っ払って自宅に帰って来た時の父の匂いと同じでした。

ちなみに、マーチは我が家にとっては2台目の車です。1台目は夫が主に通勤用に使っていたんですが、どうしても日々の買い物や病院に行ったりする時に私が乗れる2台目が必要だということで、あかねを産む前に日産のマーチを購入してもらったんです。色は緑でした。

30日には盛岡の実家に帰っています。翌31日には、私が小さい頃からずっと教えてもらっていたエレクトーンの先生に会って、あかねを見てもらいました。11月2日には洗濯物のエピソードを記しています。朝、雨が降っていたのでまあまあの量の洗濯物を部屋干ししたんですが、だんだん晴れてきたので、全部、庭に出したんです。15時すぎに確認すると、ちゃんと乾いていました。やっぱり太陽の光に干すのは気持ちよかったです。これから冬が近づくにつれて、外に干してもうまく乾かなくなるんだろうな、とその時思ったことを今思い出しました。

11月8日の日記には「最近、イライラしている。夫は仕事して疲れていても、あかねの世話をしてくれる。そんな夫にあたってしまう」とありました。

2010.11.11
わたしは思い出す、ハートランドのヤギを。

11日は蔵王のハートランドに行った日です。ハートランドは子連れファミリーに人気の場所です。入園無料ですし、ふれあい広場では動物たちに触れることができます。夫とあかねはヤギやヒツジの体に触ったりしてすごく楽しそうにしていたんですが、私は小さい頃から動物が苦手で、近寄れなくて、遠くから眺めていました。私が小学生の時の話なんですが、ロープが外れた犬がものすごいスピードで私めがけて駆け寄ってきたことがあったんです。じゃれ合いのつもりだったんでしょうけれど、とても怖かったんです。その時の経験がべったりと頭にこびりついていて。それ以来、動物はなるべく避けてきました。

この頃は、比較的、子どもを連れてお出かけしやすくなっていました。粉ミルクを飲ませる時間も量も決まっていたので、出掛けるのがけっこう楽ちんになっていたんですよ。いつもの量を持ち歩いて、お湯がある場所も事前に出掛ける前に調べて。

おむつは相性の良し悪しがかなりありましたね。いろいろなおむつを使ってみたんですけど、あかねにとっては、パンパースがしっくりきた感じでした。フィット感と吸収力がいいですね。子どもに大人気のキャラクター入りのおむつは駄目でした、漏れがすごかった。毎回、背中からウンチがびゃーって出てきていました。

13日には、家からすぐ近くの三井アウトレット仙台港で買い物をしています。休憩したくてコーヒーショップに入ったら、お隣のテーブル席に外国の男性が座っていました。その方があかねを見て「アーハー」と一言。あかねは屈託のない微笑みで返していました。

22日に離乳食を開始しています。離乳食を初めて食べさせた時のことはすごく覚えています。前日にいろいろ本を見ながら、こうしたほうがいいんじゃないか、ああしたほうがいいんじゃないかと準備していました。夫と10倍粥を作りました。いざ翌日になり、私がお粥をあげようとしたら、夫が先にあげ始めたんです。最初は私があげたかったなー。でも、もうあげ始めちゃったのでしょうがない。私が記録係として写真を撮り始めて。でも、あまりにもむなしくなってきて、家の隅のほうで泣き始めてしまいました。夫は「ごめん」みたいな感じではまったくなく、「どうしたの」という状態でした。どうしたのじゃないっていう話なんですがね。あかねは、最初は機嫌良さそうに口にいれていたんですが、すぐに泣きわめき始めましたので急いでミルクをあげました。この日から少しずつ離乳食を与えていきました。

25日にはサエさんと悠太君が私たちの蒲生の家に遊びに来てくれました。26日には「今日は離乳食を小さじ2も食べてくれた。泣かずにゆっくりと食べてくれるだけで嬉しい。離乳食の進め方、どうやったらいいのかわからない。本の通りにはなかなかいかない。ミルク以外のものが食べれるようになったらいいんじゃないか。そう割り切ったら少し楽になった。まだまだ序盤」と記しています。

29日には、新田のこどもクリニックで1回目の三種混合のワクチン接種を受けました。夫が仕事休みだったので、あかねの予防接種に初めて付き添ってもらいました。病院はインフルエンザの予防接種の子どもたちが多かったです。刺されている時は全く泣きませんでしたが、先生が「強いね」とあかねをほめながら針を腕から抜いた瞬間、激しく泣き始めました。私も嫌だったんですよね、注射。この時、自分の子ども時代の嫌な思い出をうっすら思い出していました。

同じ日の日記には「名取エアリ[現イオンモール名取]のサブウェイに行った」とありました。夫が加入している自動車保険のパンフレットにサブウェイの割引券が入っていたんです。この年の夏、サブウェイが東北に初進出したんです。最初に仙台市内にいくつかできたようです。エアリにも出来たので、気になっていたアボカドベジーのサンドウィッチを注文しました。アボカドソースをパンに塗り、5種類の野菜を乗せ、ドレッシングをかけて完成。野菜とドレッシングの増量が無料でした。ちょうど野菜が高騰している時だったのでよく覚えています。

12月2日には「明日から光のページェントが始まる。テレビで点灯のタイミングを見ようね」と書いています。でも、ちょうどその時刻がお風呂の時間にかぶっていて、結局見られませんでした。12月に入っても冬とは思えないほど暖かかったみたいです。3日にはクリスマスツリーを買っています。三井アウトレット仙台港のFrancfrancで私が見つけたものでした。

4日には宇都宮の夫の実家に行きました。あかねが産まれてから宇都宮の夫の実家に行くのはこれで2回目でした。この時も大泣きし、夜もなかなか寝ついてくれませんでした。家ではおとなしく寝てくれてそれほど困らなかったんですが、盛岡や宇都宮の家ではよく泣いていて、なかなか寝かせてくれませんでした。

翌5日には東京の吉祥寺のおばあちゃま[義祖母]に会いに、宇都宮から電車に乗っています。あかねの初電車でした。初東京でした。おばあちゃまにあかねを見てもらうことができてよかったです。この日は六本木のホテルにチェックインした後、東京ミッドタウンや六本木に出かけています。青色一面に光る庭、赤色に染められた樹木など、イルミネーションのスケールがさすが東京という感じですごかったです。

6日には仙台に帰ってきました。8日に5ヶ月健診がありました。あかねの身体測定後、インフルエンザの注射を打たせたほうがいいかを先生に質問しています。先生曰く「今は予防接種をちゃんとやってください。インフルエンザは今しなくてよいです」と言われました。栄養士さんもいらっしゃったので離乳食について相談しています。本の情報しかないのでずっと心配でしたが、いろいろ教えてもらって少し安心しました。

今から振り返ると、本当にくだらないことしか書いていないですね。でも、日記を書くことがこの頃から自分の数少ない楽しみ、気晴らし、ストレス発散になっていたように思います。誰かに話すことで楽になるという話、よく聞くじゃないですか。でも、私、誰かに話しても全然スッキリしない種類の人間なんですよ。だから、あかねが寝たあとにリビングやダイニングでせっせと日記を書いていました。夫は私が日記を書いていることを知っていましたが、中身を見せたことはないですね。夫は日記についてそんなに干渉してくることはなかったです。

私の母は、私と妹が子どもの頃に描いた絵や工作などを全部とって残しています。盛岡の実家には、私と妹の写真アルバムが2人分ちゃんとあります。写真を撮るのはだいたいが父、母もたまに撮っていました。でも、それを整理していたのは基本的には母でした。母が2人の写真を年代別にちゃんと並べて、吹き出しを書いたり、旅行に行った時のチケットを挟み込んだり。母がそうやっているところを見ていたので、私も母と同じことをやろうと思って、動物園のチケットや絵などはなるべく捨てずにしまっています。家が狭いので置く場所に困っているんですが、なかなか捨てられません。

私は、小さい頃から日記を書く習慣はありませんでした。日記を書くという行為を続けてこられたのは、あかねが生まれたということがとても大きいですね。

日記を書き始めた遠因としては、私の母が日記を書いていたから、というのもあるかもしれません。いつだったか忘れてしまいましたが、夫とまだ出会っていない時期かな、盛岡の実家で探し物をしていたら、何気なく気になるノートがあったんです。パラパラとめくっていたら、たまたま開いたところに両親が結婚した当時の父親のことが書いてあったんです。そのノート、結婚したての母親の日記だったんです。あ、読んじゃいけない。そう直感的に思って、そのまま静かにノートを閉じました。

2010.12.11
わたしは思い出す、おもちゃの受話器がついた歩行器を。

11日の夜は、家のリビングでフィギュアスケートをテレビで観ていたんですね。歩行器に乗っているあかねは、ずっとテレビを見ていました。この歩行器は、宇都宮に住んでいる夫の両親に買っていただいたものです。夫が見つけてきた蒲生の家は本当によくて、リビングがものすごく広かったんです。歩行器のおかげで縦横無尽にあかねは動くことができて、すごく重宝したアイテムでした。おもちゃの受話器が付いているんですけど、取り外すとテーブルになるんです。ご飯はそれで食べさせていました。いつの間にか静かになったなと思ったら、歩行器に乗ったまま寝ていたりしていました。あかねが大きくなって使わなくなると、使ってもらえそうな友人に譲りました。この日の昼に食べたもののところに「10倍がゆ(小4)、200」と書いてあるのは、煮詰めたおかゆを小さじ4杯食べて、粉ミルクを200cc飲んだということですね。

13日には「洗濯物が乾かない」と記しています。冬らしい寒さになり、あかねの服を買い足すかどうか迷っていました。14日には離乳食のローテーションを一品増やしました。これまではにんじん、かぼちゃ、さつまいもの3パターンでしたが、ほうれん草が加わりました。すり鉢でつぶしてラップに小分けして包んで冷凍しておいたものを、10倍粥に入れて食べさせました。口の周りを緑色にしながらパクパク食べていました。

15日には初雪が降っていました。雪に気づいた瞬間、思わず叫んであかねを抱っこして窓から外を見せてやりました。ほんの一瞬の出来事で、あっという間にやんでしまいました。あかねと見た初めての雪でした。あかねが本当に見えていたかはわかりません。

16日には年賀状の印刷を終わらせています。2011年の干支は卯[うさぎ]。出産祝いとして妹からもらったピンク色のウサギの着ぐるみのベビー服をあかねに着せて写真に撮りました。完全に親バカですね。

17日には、離乳食教室に参加するために、宮城野区役所まで行ってきました。本で読んだことや栄養士さんから伺った内容とほとんど変わらず、ちょっと期待が外れてしまいました。夫が仕事休みだったので参加してくれたんですが、男性の参加は夫だけでした。やっぱりそんなもんか。そう感じました。妊婦の時に参加したプレママ教室の時も男性の参加は夫だけでした。

22日には「台風みたいな天気。一日中、雨と雷。今の時期にしては珍しい」と書いています。翌23日はサエさん、サエさんの夫さん、悠太君、そして靖子さんとクリスマスパーティーを我が家でしています。翌24日は私たち3人でご馳走をいただきました。妹から結婚祝いでもらったワイングラスを使いました。手作りのケーキも食べたと書いています。翌25日、起床したら雪が積もっていました。27日には三種混合の2回目を打っています。聴診器をあてただけで泣いていました。針を抜かれた途端、さっと泣き止み、笑顔を振りまいていました。アンパンマンの絆創膏[ばんそうこう]を貼ってもらいました。

30日には、仕事のある夫を仙台に置いて、私とあかね、妹の3人で盛岡の実家に一足早めに帰省しました。仙台とは違い、雪がたくさん降り積もって一面の雪景色でした。31日の大晦日も水分を含んだ雪が降りしきっていて、朝から雪かきに追われました。

年が変わって2011年の元日には、親戚や盛岡市内に暮らす、通称、葛巻のおばあちゃんに会ってきました。私の母の母ですね。あかねに初めてのお年玉をいただきました。2日にはあかねのお宮参りの時にも行った盛岡八幡宮へ。3人それぞれおみくじをひきました。受付が高校の時の同級生でびっくりしました。3日には雪のまったくない仙台に戻って来ました。翌4日には銀行に行って預金口座を開設しています。お年玉をさっそく預けました。通帳の表紙はベガッタ君[ベガルタ仙台のキャラクター]でした。

翌5日には「今夜は夫がいない」と記しています。夫が夜勤の日は、あかねと2人だけで過ごさなければいけませんでした。前年の8月に里帰りを終えて仙台に戻ってきた最初の日の夜も、夫は夜勤で不在でした。いきなりあかねと2人きりで夜を過ごすことになり、本当に恐ろしかったです。日勤なら夫が帰ってくる夕方まではなんとか頑張れるんですが、夜から次の日の朝までを私1人であかねを守らないといけないと思うと、すごく怖かったです。幸い、中野栄のアパートにいた時も蒲生の家に引っ越した後も、夜中に起きて授乳することはありませんでした。ただ、夫が夜勤の日にあかねが早い時間に寝付いてしまうと、夜中に起こされるんじゃないか、なかなか寝てくれないんじゃないかといつも心配していました。

7日には初詣とあかねの誕生の報告を兼ねて塩竃神社にお参りしました。

2011.1.11
わたしは思い出す、同じ布団で寝はじめたことを。

11日には「離乳食を2回食に増やす。ゲップさせるのをやめた。大人と一緒の布団に寝る。赤ちゃん用卒業」と記録していますね。たしかそれまでは、大人用のベッドに赤ちゃん用の布団を乗せて寝かせていました。ベビーベッドに1人だけで寝かせることはしませんでした。この日から小さい布団をどけて、2人が使っている布団の中で寝かせました。寝相が悪くて何回かベッドから落ちていましたけどね。

ちなみにこの日、整形外科に行っています。年末から利き手の右手の手首に違和感があったんですが、痛みがどんどんひどくなったんです。かなりひどい腱鞘炎[けんしょうえん]だと診断されました。あかねを抱っこしたり、重い買い物袋を持つことが増えたのが原因だと思います。苦手な注射を打たれました。湿布してもらい、ギブスもしました。10日間くらいは右手首を固定されたのでとても不便でした。この日だけは、夕食の後片付けを夫にお願いしました。里帰り中に車のドアで挟んで、包帯をぐるぐる巻かれた右手を思い出しました。

11日から2回食にしたので、12日にはこれまで食べさせていたにんじん、かぼちゃ、さつまいも、ほうれん草に加えて、絹豆腐、リンゴ粉末果汁、トマトをお昼に試してみました。この日の夜、なくなってきた離乳食のストックをまとめて作って冷凍保存する作業をしたみたいです。

15日には、ララガーデン長町に入っている『のびすく長町』に3人で見学に行ってみました。無料で登録できて、おもちゃ、絵本、遊具もあって何時間でも遊んでいられる場所でした。たくさんの親子連れがいて、生後6ヶ月以上の乳児から託児もしてくれるようでした。ただ、赤ちゃん連れがいなくて、結局、赤ちゃん専用の広い部屋に私たちだけがいて、家にいるのと変わらない状況でした。翌16日には「離乳食を食べてくれない」と記しています。お昼に出した1回目の離乳食に出した根菜と鶏ささみのベビーフードがダメだったみたいで、おかゆに混ぜても全然受けつけてくれませんでした。2回目の離乳食は、7倍粥とミルクかぼちゃ、ミルクを与えたんですが、その時は食べてくれました。なかなか難しいなあという気持ちを落ち着かせて、無理せず少しずつやっていこうと自分に言い聞かせました。

17日には「目が離せなくなった」と記しています。リビングの床にあかねを寝かせて少しだけ台所にいたんですが、気がついたら私のいるところまでずり這いして近づいてきていました。これからどんどん大変になるなあと思いました。18日は夫が不在で、私がお風呂に入れました。服を着させたままのあかねを脱衣場に寝かせて、素早く私だけ先にお風呂場に入りました。そしてすぐにあかねの服を脱がせてお風呂場に移動させようとしたその時、あかねが急に泣き出したんです。私がいなくなったと思ったのかなと思って、構わず服を脱がせていたら、あかねの右足首のあたりが赤くなっていました。ほんの一瞬の出来事だったので何が起こったのかすぐにはわかりませんでしたが、それが火傷の痕だとわかりました。脱衣場が寒かったので石油ファンヒーターをつけていたんですが、それにあかねの足があたってしまったんですね。咄嗟に大声が出そうになりましたが、落ち着いて対応しようと切り替えて、保冷剤で冷やしました。足が届かない高さにファンヒーターを置いていたつもりではあったんですが、本当にごめんなさいという気持ちになりました。

20日には、仙台市から保健師の方が訪問指導に来られました。離乳食を始めて3ヶ月。ちょっとでも相談に乗ってもらったのでかなり気持ちが楽になりました。「子どもはそれぞれ違うので、ゆっくり焦らずやってください。今は食べる喜びを知ることが大事な時期です。幼稚園に入った時に、みんなと美味しく給食を食べられるようになればいいんですよ」とアドバイスしてもらいました。

22日には夫の実家に行っています。これで3回目でした。これまでは必ず泣いていましたが、この時は初めて泣きませんでした。26日には3回目の三種混合の接種がありました。前回同様、診察の時点で泣きわめいていました。ほぼ毎回ですが、針が刺さる時は私は目を逸らしてしまっていました。これまで任意接種だったヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンが2月から定期接種となり、注射はもう少し続くことになりました。

27日に外出用のバッグをやっと購入できたみたいです。ずっと布のトートバッグを使っていたんですが、あかねをスリングに入れて買い物をしていると、肩からバッグを下げていたら使いにくくて。財布や化粧ポーチなどはすぐに出せるようにしたいので、結局、別のショルダーバッグが必要になったりして。いい感じのものがないかなあとときどき物色していたんですが、バーゲンで安くなっていたものを実際に試して即購入しました。ポケットもたくさんあって、これでお出かけがずいぶんと楽になりました。

30日には「離乳食後に哺乳瓶ではなくマグでミルクをあげた」とあります。そろそろ自分の手でコップの取っ手を握って飲めるかなと思って試したんだと思います。実はこのマグ、私がラジオ局で働いていた時の上司の課長から出産祝いでいただいたものでした。やっと日の目を見ました。

2月1日には「確定申告を無事に済ませた」と記していました。そのあと、3人で泉大沢のイオンに買い物に行っています。その道中、信号待ちをしていたら後続車にクラクションを鳴らされたんです。信号を見ても赤色のランプのままだったのでどうしたんだろうと後ろを見ると、夫の友人が運転していました。その流れでご自宅にお誘いいただきました。買い物を手早く終わらせて訪問しました。家には妊娠7ヶ月の奥さんがいらっしゃって、お腹を見てまた懐かしくなりました。私たち大人が話し込んでいる間、あかねはいろんなものをペロペロしてよだれまみれにしてしまいました。

翌2日はサエさんと悠太君と4人で会って、家の近くの三井アウトレット仙台港にてお茶をしています。生後5ヶ月になった悠太君は、この日がお出かけデビューになりました。悠太君とあかねの靴下を揃えてペアルックにしちゃいました。これまでは自宅でお茶を楽しんでいましたが、この時初めてお店を利用しました。私はアップルパイと紅茶を注文しました。家で1人で飲むお茶とは全然違っていて、夫と飲むお茶とも少し違っていて、同じママ同士でいろんな話ができるのが本当に楽しかったです。悠太君とあかねを見ながら、2人が言葉を操って会話しているところを想像して、どこか不思議な感覚になりました。

翌3日には、「洗い物をしていたら、ソファにつかまり立ちをしていた」と書いています。夕食後に台所にいたらあかねの物音がしなくて静かだったんです。気になって見に行ったら、ソファの上に置いておいた私のレッグウォーマーを噛んでいました。少しずつ自分の力で立てるようになっているところですね。4日の日記には、転がすと音が出るオーボールラトルをあかねに買い与えたとあります。あかねのために買った初めてのおもちゃでした。5日は盛岡の両親が、我が家に泊まりに来てくれました。我が家にとっての初めてのお泊まり客です。立派なお雛様を買って持参してくれました。

8日には自分の手だけで哺乳瓶を支えてミルクを飲めるようになっています。

2011.2.11
わたしは思い出す、台所を指差したことを。

11日の日記には「ベビーサイン教室にサエさん親子と参加してきた。生後5ヶ月の悠太君と2回目のデート」と書いています。サエさんに誘ってもらって行くことにしたんです。ベビーサインというのは、言葉が話せない乳幼児に対して、ジェスチャーや身振りでコミュニケーションする手法です。例えば、ミルクが飲みたい時、お腹が空いた時に、それぞれのサインで赤ちゃんから教えてもらうみたいなことでした。会場に入るときに整理券が配られるんですが、その整理券がくじになっていて、たまたま私、当たったんですね。ベビーサインのことがいろいろ書かれた本をもらいました。

ただ、あかねは生後8ヶ月だったので、ある程度何となくやりとりできるようになっていたんですね。だいたいのしぐさで読み取れるというか。例えば、何か食べたい時は、台所の方まで行ってシンクの方を指差したりするとか。何か飲みたい時は、哺乳瓶やミルク缶がある所を指差したり。あと、眠い時はひたすらぐずる。

13日は、妹と午後にミスタードーナツでお茶をしてから、妹の誕生日パーティーを我が家でやっています。ラザニアとティラミスを作ったみたいです。翌14日には夜勤の夫に持たせるお弁当のごはん部分に、しらすを使って地味にハートマークを作ってみました。16日には祥子とみさきちゃんに会いに祥子の家に行っています。この日のみさきちゃんは見覚えのある洋服を着ていました。あかねが着れなくなった服を着てくれていました。そしてこの日もあかねが着れなくなった洋服をあげました。

17日には、2月から無料になったヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンを接種しています。同時接種だったので両腕に注射を打ち、その痕にアンパンマンの絆創膏を貼ってもらいました。翌月の同時接種も申し込みました。同時に2本も打たれるなんて、私だったら絶対耐えられないです。しかも、これを翌月も繰り返したなんて。

翌18日の晩には、久しぶりにお酒を飲みました。授乳中なので、何かのお祝いや家族イベントの時以外は控えていたんですが、この日は少しいただきました。『ほろよい』のアイスティー味でした。『午後の紅茶』みたいな味でした。

20日には、秋保おはぎで有名な太白区の『さいち』というスーパーまで遠出しました。蒲生は仙台市の沿岸部で、さいちはその真逆の山間部になります。13時すぎに着いたら、おはぎコーナーはもうほとんど空っぽでした。若干残っていたごまときなこのおはぎ2個入りを1パックずつ購入しました。食べたらまあ美味しい。次はあんこも絶対買おうと思いました。翌21日には、ぬいぐるみを抱きしめながら、よくもまあこんな格好で寝れますねという姿勢で寝ているあかねを発見し、微笑ましい気持ちになったのを覚えています。

24日には「家を購入して初めて迎える春」と書いています。前の住人の方が庭に植えた、名前のわからない木や花があったんですが、それが少しずつ緑色になっていきました。枯れていると思っていたら蕾が出て、花が咲きました。梅でした。もう少し暖かくなったら、縁側にお茶とお菓子を並べて日向ぼっこしながら咲き頃の梅の花を眺めようと思いました。

翌25日は初節句ワンコイン撮影サービスのはがきが『スタジオアミ』から来たので、利府店に行って来ました。お雛様の前で着物を来て撮影。笑顔を引き出すカメラマンさんのやり方が上手でした。数カットを撮り、その中の一枚を選んで写真にしてもらいました。そのあと、松島が一望できる高台に建っているロワン[当時の店名]というカフェに行きました。以前、祥子も私も妊婦だった頃に、祥子が車で連れていってくれた場所でした。すごく雰囲気がよくて、いつかは夫と一緒に行きたかったんです。夫はホットコーヒー、私はカフェオレ。2人でタルトタタンを頼みました。あかねは寝ていました。桜が咲いた頃にまた来よう。オープンテラスでお茶したいね。そんなことを話しました。28日には雪が降り、一気に冬の天候に戻りました。綺麗に咲いていた梅の花も雪を被っていました。「春よ来い。少し駆け足で来い」。そう日記に記していました。

この頃のあかねは、つかまり立ち、つたえ歩き、ハイハイができるようになっていました。癖のようなものもいろいろとでてきました。わかりやすいのは、指しゃぶりです。この癖は結構長引いて、小学2、3年生ぐらいまで続いていましたね。教えたわけでもないのに急にしゃぶり出して。最初はかわいいなと思っていたんですけど、歯が生えてくると歯並びが悪くなると聞いたので心配でした。言葉が分かるようになってきてからは「やめようか」と言ったら手を離すんですが、口元が寂しいのか、どうしても自然に指が口に行っちゃっていました。寝る時もしていたんですよ、たぶん落ち着くんですよね。本人も分かってきてはいたんですが、なかなかやめられなくて。

他にも、あかねは、車に乗っている時は私のアームウォーマー、部屋でのんびりしている時は私の髪の毛、ベッドで寝る時は私の枕の生地。場面に応じていろんなところを触ってきました。

ちなみに、母からいまだに指摘されるんですけど、私は小さい頃から服の生地を触るのが好きだったんです。例えば、こうやって今も椅子に座っていると、ついつい手が上着の生地に伸びて触っちゃう。すごい気持ちいいんですよね。今でもやめられない私の癖です。だから、あかねの癖は遺伝なのかもしれません。そんなわけないですが。

3月1日には「お風呂に入っている時に、お尻丸出しのあかねを連れて来た夫」とあります。「背中にはみ出したウンチ、どうしたらいい」と言われました。泣いているあかねを渡されたので、服を脱がせ、お尻を洗いました。夫には下着、パジャマ、オムツを用意してもらいました。夫はあかねと2人きりで過ごしたことがなかったので、そうなってしまうのは当然だと思うんですが、これくらいでワタワタするんじゃないよ、と内心は穏やかではありませんでした。3日は夫が夜勤だったので、2日の夜に雛祭りを行いました。あかねの初節句でした。この日のメニューは、ちらし寿司、松茸(に見せたエリンギ)のお吸い物、牛たたきのサラダ、厚揚げの七味にんにく、白桃カルピスでした。食後に手作りのいちごのパフェと抹茶をいただきました。

4日には「朝6時から泣き声で起こされる。いつもより早い。カーテンを開けたらうっすら降雪」とありました。夫は、この頃からあかねは結婚しなくていいと折に触れて言っていましたが、私はすぐにお雛様を片付けました。すぐに6日には「人見知りが始まった」とあります。私の姿が見えないと泣き、夫が抱っこするとさらにひどく泣き、全力で夫から離れようともがいていました。夫はずいぶんとショックを受けていました。

8日には「夜、頭と体が熱かった。37.5℃。夕方に緩いウンチをしていた」とあります。9日の朝には36.9℃まで下がっていましたが、洋服からはみ出るほどの下痢をしていました。昼食の離乳食やミルクはいつも通り食べたり飲んだりしていましたが、その後、夜勤前の夫がおむつを替えようとしたら、白っぽいウンチをしていました。こんなこと初めてだったので、ちょっと動転しちゃいました。すぐに病院に連れて行かないといけないと感じました。出勤前の夫に運転してもらって急いで病院に行くことにしました。車に乗り込んだちょうどその時です。すごい揺れが来ました。とっさに身構えてしまいました。この頃の携帯電話って、地震が起きるとアラームが鳴るように設定されていたと思うんですよ。でも、私は古いガラケーを使っていて、その機能が付いていませんでした。カーナビを点けたらテレビから速報が流れてきて。それを観て初めて、けっこう大きい地震だったんだということが理解できました。でも、次の瞬間には早く病院に行かなきゃいけないという気持ちになっていました。実際、その日の日記にも「お昼に地震があったけど、それよりもあかねが心配」と書いていました。病院に行くと、ウイルス性の炎症と診断されました。病院から帰って来てからも、お腹の中に菌がまだいるから、何回も下痢をしていました。何度もお尻を拭いてはおむつを替えました。この日の夜は、夫は夜勤で不在でした。私はずっと夜通しあかねを見ていて、離乳食を少し食べさせては薬をあげることを繰り返していました。日付がかわって10日の午前3時ごろです。また地震が来て、あかねは起きてしまいました。またウンチをしていたので、お尻を拭いて、おむつを替えました。お尻の拭きすぎで真っ赤でした。拭くたびに泣いていました。

2011.3.11
わたしは思い出す、14時7分を。

11日に、あかねは生後9ヶ月になりました。この日は夫が休みだったので、名取エアリまで車で行って買い物をしています。すぐ隣のトイザらスでムーニーマンのおむつを買いました。前々日からおむつをたくさん使っていたので、ストックが心配になって1個だけですが、買い足したんです。

帰宅して夫がリビングのテレビをつけようとした瞬間、家が揺れ始めました。最初はそんなにひどく揺れているとは思わなかったんですが、激しい揺れがしばらく続いて、怖くなって思わず家の外に飛び出しました。気づいたら、私、鍋を抱えていました。あかねは夫に抱きかかえられて家の前の道まで出てきていました。外に出ても揺れはしばらく続いていて、電信柱が倒れてくるんじゃないかと思うくらいでした。それでも夫はあかねを抱えたまま立っていました。危険だったので、その場に座るよう言いました。長いあいだ揺れていました。パニック状態でした。

揺れが収まると、お向かいのご高齢の夫婦も外に出ていらっしゃったことに気づきました。近寄って少し話をしました。長年、蒲生に住まわれている方でした。その2人が「来ると思うよ」と、はっきり言われたのを覚えています。え? 何が? 来るの? 津波が? ここまで? そう思いました。たしかに家から車で5分くらい行けば海でした。ただ、海沿いにはたくさんの松林があるし、住宅や大きなお店も立ち並んでいます。本当に津波が来るのかなと。それが正直な感想でした。「もしかしたら川のほうから来るかもね」ともお話しされていましたが、津波の経験なんてないから想像が追いつかない感じ。

家の中に戻ると、何から何までぐちゃぐちゃでした。もちろんテレビの電源も入らない。とにかく津波が来ても来なくても、この場所からひとまず離れよう。夫の一言がきっかけで、まずは蒲生よりは内陸にあった新田[しんでん]のサエさんの家に向かいました。夫がマーチを運転してくれました。私はあかねを助手席の真後ろの後部座席のチャイルドシートに載せ、私はその横に座りました。運転中も何回か地震がありました。途中で福室[ふくむろ]のあたりのコンビニに寄ったのを覚えています。何も持たないで家を出てしまっていたので、何か食べるものを確保しておこうと思ったんです。電気のついてないコンビニに入ると、案の定、ほとんど何も残っていなくて。夫が手にして帰ってきたのが、かっぱえびせんの4袋パックでした。

サエさんの家に向かっている途中に、他のコンビニもいくつか通り過ぎましたが、駐車場に設置されてある緑の公衆電話に人がずらっと並んでいました。ちょうど卸町あたりを走っていた時です。停車中に道路がぐにゃぐにゃし始めて、マーチもまわりの車もうわんうわんと揺れていました。後部座席のカーナビで、津波がやってくる映像を見ました。仙台空港に水が入ってきて、「わー」って声が漏れてしまったのを覚えています。それからしばらくは、映っている内容が頭の中に入って来なかったです。だって、ついさっきまで3人でその近くにいたんですよ。名取エアリに行く時はいつも海沿いの道を通って行っていたので、もう少し買い物を続けていたら、どこかで津波に遭っていたと思います。トイザらスのレジを通ったのが、14時7分。ムーニーマンのおむつのレシートに打刻されていました。今もそのレシート、昔から使っている手帳に入れて《お守り》代わりに持ち歩いています。

サエさんの家に着くと、サエさん、夫さん、悠太君が家にいました。とりあえずみんな無事だったのでお互いにほっとしました。いつの間にか夕方になっていて、街灯も点いていなかったので、辺りはもうずいぶん暗かったです。よく覚えていないんですが、いったん自宅に帰ろうということになり、ヘッドライトだけを頼りに蒲生の家に向かったんです。でも途中のどこかで警察官に呼び止められて、「この先は行けません。水が引いてないので、この先に行くのであれば、車を置いて歩いて行ってください」と言われました。その説明を聞いて、自宅に戻ることは諦めてサエさん家に引き返しました。

サエさん家で一休みさせてもらっている時に、妹から「お姉ちゃん、どこにいるの。怖いから一緒にいて」というメールをもらいました。ずっと混線していたんですが、たまたまその時に受信できたんです。「今から家に行くから待ってて」と連絡して、泉区の妹のアパートに行きました。駐車場の車の中で毛布にくるまって待っていました。職場から3時間くらいかけて、歩いて帰ってきたらしいです。「家の中に1人でいるの、嫌だ」と言いました。結局、妹と私たちはサエさん家に一晩お世話になりました。お住まいはマンションの11階にあったんです。長い階段でした。11階に着いて家の玄関に入ろうとしたら仙台港の方面が赤々としていました。火災でした。ちょうど自宅のあるあたりのように見えました。「家、燃えているかもしれないね」と妹につぶやいたことを覚えています。

その夜は、大人は誰も寝てないんじゃないかな。ラジオはずっとつきっぱなし。ろうそくか懐中電灯があって、ほんのり明るかったです。ほとんど何もしゃべっていないような気がします。今でもサエさんとは、「あの時、かっぱえびせんを買って来てくれたよね」という話になります。お湯がなくてミルクが作れませんでした。前日までお腹の調子が悪かったあかねは、その時だけはずっとスースー寝てくれていました。悠太君は母乳での授乳だったので、頻繁に泣いて起きていました。夫の職場はサエさんの家からすぐ近くにあったので、朝になると会社までお湯をもらいに行ってくれました。夫の勤め先の警備会社では、地震直後は交通手段がなかったりガソリンがなかったりして、同僚や上司がなかなか会社に来れませんでした。そのため、11日の夜勤の監視業務にあたっていた人がそのまま数日間は社内で寝泊まりしてモニタリングの業務を続けていたらしいです。さいわい社内は自家発電が備わっていたようです。

翌12日にはサエさんの家から泉区にあった妹のアパートに移動しています。その後、夫、妹とあかねの4人で蒲生の家に戻ってみることにしました。蒲生の周辺は火事と石油の臭いが漂っていました。いつまた地震や津波が来るかわからない、そんな恐怖を感じながら家に近づいていきました。蒲生の住宅街の道路は泥が積もっていて、たくさんの轍[わだち]が地面にできていました。我が家も基礎の高さまで津波が来ていました。通気孔まで浸かった痕跡がありました。あともう少しで、床上に浸水していました。海からここまで、たくさんの家や木があるのに、波は本当にここまでやって来たんですよね。同じ住宅街でも我が家から50メートルくらい海側に向かうと、家屋の1階部分の天井くらいまで海水が浸かっていました。

家の中はぐちゃぐちゃ、ライフラインは何も使えなかったです。水も出なかったです。あの時、夫と一緒にいなかったらどうしていたんだろう。もし夫が「逃げよう」と言ってくれなかったら、9ヶ月の赤ちゃんと私だけだったら、たぶん家から出なかったかもしれません。逃げたところで、どこに逃げようかわからなかったと思います。夫の会社に行くまでの道もすごく混んでいただろうし、ガソリンもなくなるだろうし。今でもその時のことを考えるとぞっとします。

夕方になって、蒲生の家から妹の家に戻る途中、「トイレに行きたい」と妹が言い出して。まわりが停電している中、泉区のアパートの近くのソフトバンクのお店だけが煌々と電気がついていました。復旧工事は一生懸命やってくださっていたと思うので、徐々には電気が来るんだろうなとは思っていましたが、震災の次の日なのにこの場所はもう電気が戻っているんだなと思いました。アパートはその店舗と目と鼻の先の距離にあるんです。なんでここには電気が来ないんだろうね、と2人で話した覚えがあります。

お店に入ったら、充電器もいっぱいあって。私も妹もソフトバンクの携帯は持っていなかったんですが、そこにはいろんなキャリアに対応できる充電器が揃っていて。トイレも使わせてもらって。すごく親切でありがたかったです。「お配りしていますので、どうぞ」と声をかけられて、白い犬の画像が真ん中に載っているインスタントラーメンとボックスのティッシュをいただきました。そのラーメン、もったいなくて、なかなか食べませんでした。今でもそのショップは同じ場所にあって、そのあたりを通るといつも当時のことを思い出します。

近くのガソリンスタンド、すごい列ができていたんですが、その列に並びました。結構ギリギリだったんですよ、ガソリン。蒲生の家から妹のアパートまで結構な距離があって、行ったり来たりしてるだけでも意外と使うんです。だから、どこかでガソリンを入れないとガス欠になるなと思って。たしか満タンは入れられなくて、2000円分だけとかの制限があったような気がします。2000円分といっても、その時の単価がすごく高くて、それほどは入れられなかったです。このガソリンスタンドもまだあります。

この日から妹のアパートでの生活が始まりました。妹のアパートは、水道は出ないけど外のタンクから水が出せるということでした。飲み水にはできないけど、生活用水として使いました。何往復もしてお風呂場に貯めて、トイレの排出に使っていました。蒲生の家から石油ストーブと灯油缶、水のペットボトルを取ってきていたので、それで暖を取ったりお湯を沸かしていたりしました。情報は、ラジオと車に乗った時のカーナビでした。でも、市内はほぼ停電していて、あの時テレビを見ることができていた人はどれだけいたんでしょうね。テレビからの情報はほぼ入ってきませんでした。ずっとラジオを聴いていました。

12日の夜もあかねは何回も下痢をしています。お薬を飲ませることもストップしちゃって。なかなか体調が戻りませんでした。鼻水もでてきました。髪の毛もごわごわ。お風呂に入れて清潔にしてあげたいけど、それができませんでした。でも、こちらの心配があかねに伝わっているとか、そういうことはあんまり感じませんでした。妹のアパートにある物で機嫌よく遊んでくれていました。それだけが救いでした。

妹のアパートには1週間ほど避難させてもらいました。アパートの停電は数日後に復旧しました。電気がなかった時間が、とても長く感じました。それまでずっとラジオを聞いていたので地元のトピックやニュースが多かったんですが、テレビで仙台市の沿岸部や宮城県の他の地域、他県の被害状況を知って、愕然としました。原発事故や放射能のニュースも流れていて、とても心配になりました。でも、テレビに写った映像はなんだか現実味がないというか、何かのドラマを見ている感じもしました。テレビCMもすごく印象に残っています。金子みすゞの「こだまでしょうか」とか、軽快な音楽とアニメーションのCM。「ポポポポーン」です。あのCM、あかねがすごく気に入っていたんです。いろんな人があのCMを加工編集している映像がYouTubeにあることを妹が見つけてきて。震災前に購入していた家族共用のiPodがあるんですが、ぐずったあかねにその映像を見せると泣きやんでいました。

17日には、盛岡の父母が車で迎えに来てくれたと記しています。夫や妹は仕事があるので仙台に残らないといけませんでした。2人を残して盛岡に行くのは、とても複雑な気持ちでした。高速道路は使えず、一般道で帰ったんですが、ミルクの時間が気になっていたこともあって、岩手県に入ったあたりのコンビニで一休みしたんですね。広い駐車場に車を停めると、奥のほうにこぢんまりとしたたい焼き屋さんがあったんです。「コンビニでお湯もらいがてら、たい焼き買ってくる」と父が言ってくれて。そのたい焼きがすごくおいしくて、とても感動したことを覚えています。そのたい焼き屋さん、今もまだやっています。その場所を通るたびに、そのことが思い出されます。

コンビニ、ファミレス、ファストフード、ドラッグストア、レンタルビデオ屋、パチンコ屋。盛岡に向かって北上するにつれ、車の中から見える街並みが変わっていきました。営業しているお店が増えていくんです。隣の県なのに事情がまったく異なっていました。

翌18日は「母といっしょに買い物に行った」と書いています。1年4ヶ月ぶりに自転車に乗りました。妊娠して以来乗っていなかったんですが、ガソリン節約のためでした。スーパーは入場制限もなく、野菜、刺身、生肉、乳製品、お惣菜、パンなどが普通に売られていました。多少は品薄のものもありましたが、品数は豊富でした。他にも、コンビニは普通に開いているし、ガソリンもそこそこ普通の値段でした。ライフラインもままならない仙台とはまったく状況が異なっていました。ちなみにあかねはこの日、ゆるゆるじゃないウンチをしました。離乳食も再開できて、いっぱい食べてくれました。

母に言われたことを覚えています。「あんたたちが大変な思いしている時に、私たちは毎日ご飯を食べることができたり、お風呂に入ることができる。それが苦しくなって、2日置きにしか入っていなかったんだ」って。親は親なりにいろいろと思うところがあったんだなあと気づかされました。

24日の日記には「佐々岡さん、遺体で見つかる」と書いてあります。出産する前まで働いていた音響技術の会社の元上司です。津波に遭って亡くなられたことを元同僚から教えてもらいました。蒲生の家から少し海側に行ったところにお母様のお家があったようで、助けに行かれたとのことでした。

盛岡には2ヶ月ぐらい避難していました。盛岡に来てわかったのは、仙台のニュースがないので、仙台の復旧の状況がなかなか伝わってこないということでした。

4月5日には「父が歯ブラシを買ってきてくれた」とあります。あかねの歯はまだ生えていませんでしたが、歯ブラシを咥えて歯磨きごっこをしていました。

8日には「7日の夜に大きい地震。もう勘弁してほしい。震えとドキドキが止まらなかった」と記していました。盛岡は震度5強、蒲生の家がある仙台市宮城野区は震度6強でした。盛岡の実家が停電しました。仙台の夫に電話しましたが、やはり夫のいた場所も停電していました。大人の不安をよそに、あかねは起きることなくぐっすり寝ていました。そして、屈託のない笑顔で起きてきました。午後3時30分ごろにラジオで復旧のお知らせが流れたので、ブレーカーをあげてみました。冷蔵庫のブィーーンという低い音が鳴ったのを覚えています。

2011.4.11
わたしは思い出す、知らない人が家に入ってきて大泣きしたことを。

11日は、夫が休みをもらってやっと盛岡の実家に来ることができた日です。3月17日以来、私もあかねも夫と会うのはほぼ20日ぶりでした。夫の勤務先にも避難所暮らしの方、亡くなった方がいらっしゃったので、人手が足りていませんでした。出社できる人だけでシフトを回していました。夫も泊まり込みが続いて、働き詰めでした。仙台ではまだガソリンを手に入れるのが大変だったので、節約のために夫はなるべく車で移動しないようにしていました。

再会のシーンは忘れもしません。玄関のチャイムが「ピンポーン」と鳴ったので、「誰かなあ」と言いながら、あかねと一緒に玄関まで行きました。ゆっくりとではありますが一生懸命、ハイハイしていました。ドアが開いて、「あかねちゃん」と夫が言ったんです。その途端、笑っていたあかねの表情がみるみる曇りだして。目尻も下がって。うわーんって大泣きしはじめたんです。この人、誰、みたいな感じで、急いで家の奥に戻っていきました。ササササって。

地震のあと、1週間くらいは妹の家であかねと一緒にいたはずなんですが、時間が経つと忘れられてしまったようで、夫はすごくショックを受けていました。夫があかねの名前を呼んでも、怖くて私にしがみついて。なかなか寄りつかなくて。次の日には夫は仙台に戻らないといけないのに。徐々に慣れてきて、この日の夜は久しぶりに3人で川の字になって寝ました。ちなみに、この日は「今日から3回食に」ということも日記に書いてあります。

翌12日、夫が仙台に出発する時刻には、ずいぶんと打ち解けていました。ちょうどおやつの時間で、夫に与えられたベビーせんべいを嬉しそうに食べていたのを思い出します。

15日には「仙台はどうなっているんだろう。我が家はどうなっているんだろう」とありました。16日に仙台に日帰りであかねを連れて一時帰宅しています。およそ1ヶ月ぶりの帰省でした。父が運転して、母も一緒に来てくれました。高速道路はガタガタで、段差もたくさんありました。速度制限がかかっていました。自衛隊や他県の警察の車両が往来する姿を車窓から眺めていました。長者原サービスエリアで休憩したことを覚えています。

当日の日記には「3月17日以来、仙台に帰った。春物の服などを取りに。近所はキレイになってた」と書いていました。盛岡で手に入る食料や作り置きも持って行きました。あいにく夫は仕事で留守でした。久しぶりに鍵を自分で開けて中に入りました。1人で仙台に残った夫は、一生懸命、家を綺麗にしてくれていました。でも、カレンダーがそのままでした。時間が止まっているみたいでした。

家にいる時も地震がありました。落ち着いて座っていられませんでした。家から早く出たい。そう思ってしまいました。みんなでお昼を食べ、母は夫のために台所でご飯を作ってくれました、父は掃除をしてくれました。私は盛岡に持参していた服と家に置いていた服を入れ替えて、春用の着替えを用意しました。途中で妹が家に来てくれました。

午後3時頃に家を出て、夫の職場の近くまで行って、少しだけ話しました。私の前職の会社にも寄って、亡くなった佐々岡さんの写真の前で手を合わせました。初節句の記念にスタジオアミで撮影した時の写真を受け取りに行きました。お雛様と一緒に写っているあかね。地震が起こる前の日常がそこにありました。

仙台に残って生活していた人から怒られると思うんですが、正直、この時は、仙台でふたたび生活を始めるということがまったく想像できていませんでした。あの日の記憶が蘇って本当に怖かったんです。でも、夫が頑張ってくれていることを思うと、早く家に帰らなきゃいけないと思いました。

19日には夫が盛岡に来てくれています。数日前に仙台で会っていたし、この時あかねは夫を見ても泣きませんでした。夫が仙台に帰る直前に、あかねと一緒におやつの時間を過ごしていました。ささやかなその風景に涙が出そうでした。27日には実家の庭の桜が咲き始めています。この日、仙台にいる妹が盛岡の実家に地震後初めて帰って来ました。あかねはこの日、ストローを初めて使うことができました。

5月2日には「親友のアヤとえみちゃんが遊びに来てくれた」と書いていました。アヤは中学からの親友で、サエさんや祥子よりも古い付き合いで、何でも話せる間柄です。しばらく疎遠な時期もあったんですが、本人から3年くらい前に「結婚して子どもが産まれます」という連絡があり、交流が復活しました。夫さんの仕事の都合で水戸に住んでいたんですが、盛岡の実家に一時帰省したタイミングで、私たちに会いに来てくれました。

私は中学生の時に、父親の仕事の都合で転校しました。転校して最初に声を掛けてくれたのがアヤだったんです。職員室が分からなくてうろうろしていたら「教えてあげるよ」と連れて行ってくれたんです。

アヤの娘のえみちゃんは、あかねの2歳年上。最初は恥ずかしがっておしゃべりしてくれなかったんですが、少しずつ慣れてくれて、あやしたり話しかけたりしてくれていました。あかねは人見知りすることなくご機嫌でした。歳の近い子どもとふれあう機会がなかなかなかったので、嬉しくて楽しかったのかもしれません。この日のあかねの服は、えみちゃんが着ていた服のお下がりで、アヤがくれたものでした。

4日には「やっと麦茶を飲んだ。最近ミルク以外の飲み物を飲んでくれるようになった」と書いています。水分が足りないせいだと思うんですが、コロコロしたウンチを苦しそうに出していて、心配していました。お茶をストローで飲ませてみたらすんなり飲んでくれました。5日は葛巻のおばあちゃんに会ってきました。盛岡にいる時は何度も会いに行っていましたが、この日が避難生活で最後の面会になりました。

7日には「盛岡での避難生活を終え、父母に送られて仙台に帰ってきた。今夜は妹も我が家にお泊まり。父母もお泊まり。2人は明日盛岡に帰る。2ヶ月間ありがとう」と書いてあります。父の運転で帰ったんですが、高速道路から盛岡の街が見えた瞬間にものすごく寂しくなって泣いてしまいました。

9日の日記には「家で過ごす一日がまだ怖い」とありました。すごくよい天気だったことを思い出します。大量の洗濯物を干しました。外は潮の匂いが漂って、砂埃も舞っていました。前日から喉が痛かったです。夏に近づいていくと、この匂いはさらにひどくなるのかな。そんなことを思いました。外出しない予定でしたが、家にいるのがやっぱり怖いということもあって出かけました。蒲生から離れると、空気がよかったです。盛岡と比べると営業再開できていないお店が多くありましたが、仙台の街も少しずつ前に進んでいるように感じました。

2011.5.11
わたしは思い出す、納豆ごはん、かぼちゃ、オレンジヨーグルトを。

地震から2ヶ月が経ちました。家から少し離れると、瓦礫がまだ残っていました。11日は朝ごはんに「納豆ごはん、かぼちゃ、オレンジヨーグルト」を与えています。3回食を始めてから、ちょうど1ヶ月が経つ頃でした。あかねが小学校にあがるまでは、あかねが食べたものも毎食、記録に残していました。産後の食事の記録をつけはじめたら、やめられなくなってしまって。

盛岡での避難生活では、両親が準備してくれたものがバラエティーに富んでいて、いろいろ満遍なくあかねに食べさせられたんです。だけど、夫、好き嫌いがものすごく多いんですよ。例えば、納豆のにおいが好きじゃない。この日は夫が夜勤で、家にいなかったんです。でも、私やあかねは納豆が大好き。だから夫のいない朝に納豆を刻んであかねに食べさせました。私もここぞとばかりに食べました。

家では、夫がいる時は基本的に夫が嫌いなものは食卓に出しませんし、そもそも買いませんでした。買うとしたら夫のいない時です。とは言え、食材を余らせるのも嫌だったんです。だから結局、買わないものが増えてしまいました。でも、食卓に出さないとあかねも食べなくなっちゃう気がしていたんです。下手をすると、幼稚園や小学校での給食で初めて食べる物がぽろぽろ出てくるんじゃないかなと心配していました。いろんなものを食べさせたいと思っていたので、夫が食べられない料理は、夫がいない時にいつも食べるようにしていました。

例えば、夫は卵もお酢も大丈夫なんですが、マヨネーズが駄目。日記にも「マヨネーズ美味しい」と書いてあったりします。あれは夫への当て付けのつもりです。キュウリも食べない。サラダに千切りキュウリが入っていたりしますよね。そのサラダ、一切、食べませんでした。匂いが付いているから嫌だって。よく私やあかねに“毒味”させていました。

13日には「やくらいガーデンに行った。芝の上をハイハイし、草をむしって遊んだ」、16日には「富ジャス[現イオンモール富谷]で歯が見えてきてるのを発見」と書いています。翌17日のことです。お昼の時間に『笑っていいとも!』がやっていました。犬が登場した瞬間、それまでイチゴを食べていたあかねの手が止まり、じっと犬の動きを見ていました。そのコーナーが終わると、またイチゴを食べ始めました。この頃は犬がお気に入りだったようです。外を散歩中にご近所さんとその犬に出くわした時なんかは、私がワンワンだね、と言うと、あかねはアーアーと言っていたのを覚えています。

18日には「宇都宮の義母たちが仙台に来てお泊まり。松島に行った」とあります。お義父さんは体調がすぐれず、留守番だったようです。地震の直後は、自宅まで津波が来たこともあって、海に近づくことに恐怖感がありました。宇都宮からやってきた義母たちの希望で松島の遊覧船に乗りに行ったんですが、船に乗った途端に怖さを我慢できなくなって、ちょっとつらい気持ちになりました。地震が起こってからしばらくは、太平洋側の海に海水浴に行くのもなかなか気が進まない状態でした。今振り返ると、遊覧船の営業がもうこの時期に再開していたことにびっくりです。

翌19日には、いただきます、ごちそうさまの手合わせが出来たこと、22日には、私があかねの髪を初めて切ったと記しています。24日には、「ララガーデンで9ヶ月の男の子に押し倒された」とあります。そう言えば、そんなことがありましたね。26日は、夫が夜勤の日でした。この頃は余震が心配だったので、夫のいない夜は必ず妹が家に泊まりに来てくれていました。この日、妹と私の目の前で、あかねの《はじめの一歩》が出たんですよ。2人で大騒ぎしました。この日から一歩ずつ歩けるようになりました。翌27日には11ヶ月健診のために、新田のいつもの小児科に行きました。体重はあと少しで9000グラムになりそうでした。この頃のことで思い出すのは、あかねの「美味しい」が、首を横に振るしぐさだったことです。最初は「イヤイヤ」だと見間違えて、美味しいのか美味しくないのかよくわかりませんでした。

29日には「1人で立ち上がりできるようになる」と書いてあります。6月3日には「ミルトンでの消毒を終了」と書いています。哺乳瓶を卒業した日ですね。8日には「庭に一輪のバラが咲いていた」とありました。地震が起きた頃には、白いバラが庭に咲いていました。この時はオレンジ色でした。2つのつぼみも見つけました。この日、「マンマ」「パッパッ」とあかねが言葉を発したと書いています。言葉らしき言葉を初めて聞いた感覚がありました。夫と歓声をあげて喜びました。

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