サンデー・インタビュアーズ

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わたしの場合

八木寛之

八木寛之2021–2022年度メンバー

1981年生まれ。生まれも育ちも関西。現在は神戸の大学で都市社会学の教員を務める。ある時、三軒茶屋のキャロットタワーの展望台で見た、多摩丘陵へひろがる「のっぺりとした」市街地をみて、めまいのような感覚に陥ったことが印象に残っている。

2021年度の〈きく〉

No.29『京王プール』00:42No.29『京王プール』00:42

準備体操をしている男性の背筋がたくましい。この世代の男性は戦争を経験していたんじゃないかと思うと、体操や身体を鍛錬することの意味が今とは違って見える。子どもの頃、私も映像に写っているような市民プールに行った思い出があるけれど、映像ではおばあちゃんが和服を着ていたりして、その登場人物が自分の記憶と違っていて、不思議な感覚を覚える。1961年8月13日の翌朝の新聞にはこんな見出しがあった。「メタンガスで人夫4人死ぬ 工事穴に落ち込む 日本橋高速道路の現場で」、「人気よぶ湾内航路 海のシーズンで大詰め賑わい」、「暑い日曜ドライブ事故多発」。

ワークショップを振り返って

橋本さんのドキュメント第5回では、坪内祐三さんの文章を引いて「それ以外の通りがかりの人たちも多くいる場、それが街だ」と書いていました。私は社会学の視点から地域を調べているので、そこにいる人の社会関係を想像したりすることがあります。「世田谷クロニクル」の映像はほとんどホームムービーなので、家族や友人などの親密な関係が写っています。世田谷は地の人だけでなく、いろんなところからきた人が住む90万人の「街」です。そこにはその数だけの人生がある。地域の住民ではない私たちが、誰かのホームムービーを見ながら下北沢という街について話すとき、街に対する距離感とか、個人的な話が出てきた。そんなワークショップの場面が印象に残っています。

2022年度の〈きく〉

No56『改正商店街』01:32No56『改正商店街』01:32

私は社会学の視点から商店街の近代化について研究しています。今回は商店街が映っているフィルムに注目しました。映像の解説文によれば、商店街を改築するために、阿佐ヶ谷や横須賀を視察した様子が映っています。撮影されたのは昭和40年。撮影者の息子さんの言葉によれば、「家業を継ぐのは当たり前の時代。オリンピックの前に道幅拡張工事で商店街全体がセットバックした。環七の道路の真ん中あたりに当時の店は建ってました」とのこと。その少し前の時代を調べてみると、昭和20-30年代に世田谷の人口や商店の数が急増しています。区外のデパートなどの大資本への対抗として、商店会はお互いに連携して商店の復興に努めていたようです。

No56『改正商店街』04:04"No56『改正商店街』04:04

昭和30年代の終盤に差し掛かると、区内の従業員は増えているにもかかわらず事業所の数は減少。要因は道路拡張工事だけでなく、事業所の統合や区外の大資本が経営する事業所へと区民が移ったからだと考えられています。世田谷は戦前から高度成長期以降も職住分離の地域社会(ホワイトカラーの街)として形成されていきました。こうした背景を踏まえて大きく見ると、「自営業 対 大企業」という構図のなかで世田谷の商店街を捉えることができそうです。地場産業が強い下町(東京の東部)の商店街との違いだと言えます。労働条件や福利厚生が充実している大企業への競争手段として、東京都の中小企業や商店が始めたのが集団求人(集団就職)でした。

No.66『理容店2』00:54No.66『理容店2』00:54

海水浴に興じる若い男性の姿が映っています。この映像の解説文には、「提供者の義母が営む理容店の社員旅行。中学卒業後、理容師の見習いとして遠方からやってきた子もいた」とあります。世田谷への転入者数を年齢別に記した資料を見てみると、昭和32年は15–19歳の転入者──とくに男性──がほかの世代より突出して多いことが分かります。『桜新町商店街50周年記念誌』(2005年)には、「ようこそ!集団就職ご一行様」という見出しのページに、桜新町商店街が全国に先駆けて集団就職の受け入れを実施したことが書かれています。桜新町商店街で集団雇用についてお話をうかがってみましたが、商店街のなかでも昭和30年代当時のことを知る人は少なくなっている状況です。今後は、集団就職を実際に経験した方に「きく」ことをしてみたいと思います。

ワークショップ内での発表をもとに、その一部を抜粋して事務局(AHA!)がまとめました。ライターの橋本倫史さんによる〈きく〉のドキュメントをnoteに掲載しています。
「集団就職で採用された従業員が住み込みで働いていた」──八木さんの発表